「滝山病院事件」に直面して思うこと

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K・T (障碍者施設職員)   

「許されない」、そして「力不足」

NHKのEテレで、2月25日に「ルポ 死亡病院~精神医療・闇の実態」が放映された。東京都八王子市の精神科病院、滝山病院(病床数288)の実態である。1年間のNHKの取材(潜入ルポ)をもとにした放映であった。2月15日には警察の捜査も入り、以降、「滝山病院事件」として“世間”に広まった。

映像を見ながら「本当に許せない」という気持が沸き起こる。映像からは、ベッドに患者さんを抑えつけたうえで「ぶち殺していい?」「やっていい?」「腕を折るぞ」「口の利き方に気をつけろよ」「何で、ものの頼み方がわかんねえんだよ!」の職員の言葉が聞こえる。「怖い、怖い」と患者さんの声が聞こえる。観るのも怖い、恐ろしい光景である。しかも、それが「その日は特別」ではなく“日常”の光景であることも分かる。ああ、こんなことが、今の現実なのだ。

40年前の「宇都宮病院事件」が起きた時、その4年前の「大和川病院事件」も含めて、それらが“事件”であるのはマスコミが取り上げたからであり、そのこと自体は“日常”であることを忘れてはならない。多くの当事者・精神医療関係者は声をあげた。「家族も大変だろうから精神病院は必要だ」「精神病院はそんなものだ」と、あきらめるのではなく、人権を守れ、脱施設、差別はいけないと、取り組みを続けてきた。

私たちが、地域の市民と精神科病院に勤める職員と一緒に、「病院中心主義から地域生活へ」を目指してもうすぐ25年になる。しかし、またも“事件”が起きた。この報道に接した今の気持ちは「精神病院の在り方はダメだ」とか「まだこんなことがあるのだ」、「ひどい」だけでは言い表せない。それだけではなく「悔しい」「残念」、そして何よりも自分たちの力足らずが胸に刺さる。これが正直な気持ちである。

『精神病院はいらない!』(大熊一夫編著)を読み返す

思わず本棚にある『精神病院はいらない!』(大熊一夫編著、現代書館)を手にした。イタリア・トリエステの「精神病院解体」(精神病院なしで当事者は生きる)の取り組みの紹介である。

精神病院は緊急・重篤・高齢・合併症といった本当に入院治療の必要な人を担当し、街中に精神科の有床診療所がたくさんあったらどんなに安心だろうか。通院していてちょっと疲れたり、休んだほうがいいと思ったら「休息入院」もできる。街のクリニックは19床まで入院ベッドを持つことができるのだ。でも街に有床診療所は見当たらない。

確かに、日本の精神科病床数はゆっくりとは減少してきている。1999年には35.8万床だったが、2014年には33.8万床になった。ゆっくりだが病床数も減少してきているという現実に「まぁ仕方ないか」と妥協する気持ちの緩みが滝山病院事件を引き寄せ、事件を生み出した精神病院体制を存続させてきたことを肝に銘じるべきなのである。

何か必要なのか。『精神病院はいらない!』を読んで思うのは、やはり政治の、あるいは行政の決断である。イタリア・トリエステの例だけでなくヨーロッパのほかの国でもそうだが、バザーリア医師のチャレンジを地方自治体も政府も後押ししたということである。いまの日本の政府は精神科病院協会のいいなりとなり、自治体はヨーロッパと比べれば独自性も力もないので「困っている患者の受け入れ先は病院しかない」といって現状を是認するだけである。

国連は精神病院への強制入院廃止を勧告した。しかし…

2022年9月、国連障害者権利委員会は日本政府に対し勧告を公表した。医学モデルから社会・人権モデルへの転換を求め、精神科医療については、障害に基づく強制入院の廃止を求めていた。では日本の現実は何どうか。

国会機能が劣化し、何の議論もないままの束ね法案が目白押しだが、精神保健福祉法の一部改訂もその一つである。改訂された「医療保護入院」とは「措置入院制度」に加えての強制入院であり、家族等の同意があれば本人同意なしの入院ができることになっている。その制度が部分改訂されたのであるが、議論のきっかけの一つは、この制度がもつ家族への重圧や負担をなくすことであった。しかし十分な議論もないまま成立した法案では「家族等が同意・不同意の意思表示を行わない場合にも、市町村長の同意が可能」となってしまった。それでは今よりも一層、本人同意なしの精神科病院への入院が増えるだろう。地方自治体はその当事者に強制入院が必要かどうかを判断できるのか、その体制があるのか、そういった検討もないままに、法案が成立してしまったのである。

現状を見れば精神病院解体など「夢」か「絶望」のどちらかであるが、当事者とともに「生きる・暮らす」取り組みを通しての希望は捨てないでいきたい。